
全国的なトラホームの大流行があり,その対策として洗眼などの対応にあたるよう,明治38年,岐阜県の2つの公立小学校に,学校衛生の従事者である学校看護婦が配置されました。
その後,全国各地で,一人,二人と学校看護婦が配置され,各校を巡回して,トラホーム洗眼,身体検査補助,各種行事の救護などに従事するようになりました。
少しずつ増えてはいましたが,大正11年,文部省が初めて学校看護婦の全国調査を実施し,翌年2月に発表したところ,全国で111名とのことでした。やはり,職務の中心はトラコーマ洗眼です。トラコーマ洗眼が中心であっても,職務規定は地方ごとに設けられていて,全国を統一した規定はありませんでした。
昭和4年になって,文部省は「学校看護婦ニ関スル件」を公布しました。初めての学校看護婦に関する法令です。

昭和9年に「学校衛生婦」,昭和13年には「学校養護婦」と改称されました。名称は変わっても,文部省と厚生省の主張が異なり,学校職員とするか,衛生職員とするかで揺れていました。

昭和16年,国民学校令が制定され,先生は訓導,学校養護婦は養護訓導となり,教育職員として初めてその職制が確立され,今の養護教諭の原点となりました。養護訓導免許検定制度も発足し,全国各地で養護訓導資格取得講習会が開催されるようになりました。講習受講者は資格試験を受け,合格すると養護訓導免許状が授与され,ようやく身分の切り替えができたのです。このころの養護訓導の資格は,国民学校令第18条に「女子ニシテ国民学校養護訓導免許状ヲ有スルモノタルベシ」と規定されており,女子に限られていました。具体的な職務は昭和17年に養護訓導執務要領(訓令)で示されました。教育的関与が増え,教育的な性格が強まり,教育職としての地位や身分が確立しました。

昭和22年,学校教育法が制定され,訓導は教諭,養護訓導は養護教諭に改められました。戦後,国民の健康状態は著しく低下し,栄養不足,非衛生的な環境で,伝染病が流行したりして,子どもたちの健康を回復,向上させることが課題であり,養護教諭が必要とされていました。学校教育法では,第28条に「小学校には,校長,教頭,教諭,養護教諭及び事務職員を置かなければならない。ただし特別の事情があるときは,教頭,または事務職員を置かないことができる。」(中学校準用)とされ,養護教諭の配置が徐々に増えていきました。同じく28条第7項に「養護教諭は,児童の養護をつかさどる」と示されたものの,具体的な職務内容は示されなかったので,「養護をつかさどる」はさまざまな解釈がされました。やがて,文部省は中学校保健計画実施要領(試案)や小学校保健計画実施要領(試案)を作成し,養護教諭の職務を示しましたが,その内容は占領下にあったアメリカのスクールナースの制度にそったような「援助」「協力」「補助」「助力」等とされ,昭和17年の養護訓導執務要領に比べ,養護教諭の主体的な役割が狭まっていました。

昭和47年,保健体育審議会答申により,「児童生徒の健康の保持増進に関する施策」について,養護教諭の役割や配置,養成の在り方について示されました。この答申で,「養護をつかさどる」とは「児童生徒の健康の保持増進するための活動」と解釈されるようになり,養護教諭の主体的役割が明確になりました。具体的には,「(1)
学校保健情報の把握に関すること (2) 保健指導・保健学習に関すること (3)
救急処置及び救急体制に関すること (4) 健康相談活動に関すること (5) 健康診断及び医師が行う健康相談に関すること (6)
学校環境衛生に関すること (7) 学校保健に関する各種計画,組織活動の企画,運営への参画及び一般教員が行う保健活動への協力に関すること (8)
伝染病の予防に関すること (9) 保健室の運営に関すること」があげられました。

その後,社会の急激な変化に伴い,生活様式などの変化は,子どもたちの心身の健康に大きな影響を及ぼしました。不登校,いじめ,薬物乱用,性の逸脱行動,生活習慣病など,子どもたちの問題行動は健康に関わるものが多く,心身両面へのケアが必要とされ,養護教諭に大きな期待が寄せられるようになりました。平成9年,保健体育審議会答申で,「養護教諭の新たな役割」が提言されました。この提言により,教育課程審議会では養護教諭の養成カリキュラムが改善されました。
平成10年の教育職員免許法の一部改正により,養護教諭に保健の授業を担任する教諭又は講師になりうるような制度が定められました。
